目指すべき境地

数日前、私は仕事でちょっとしたミスをしました。

その後、私はそのミスを気付かずにいたのですが、数日後にそのミスに気付いた人とは別の人から「そういったミスがあったと言っていた」と指摘されました。そして、そのミスはそのままになっていました。

そのミスに関しては、特に重大なトラブルに発展するような事案ではなく、誰もがたまにするミスですぐに修正がききます。ですから、なぜ気付いたときに直しておいてくれなかったのか? という気持ちになりました。簡単に修正できるのだから、やっておいて後で指摘してくれても良かったのに、と。更に言えば、その後も顔を合わせていたのになぜ直接言ってくれなかったのか、と思いました。

そして、やはり自分のことが嫌いだからワザとそうしたのだろう、と思い、嫌な気持ちになっていました。

しかし、そのままにしておくのもモヤモヤするので、そのミスに気付いた人に直接、ミスに気付いてくれたことに対してお礼を言いました。すると「何のこと?」といった反応。実際には、ミスに気付いたのはその人ではなく、他の人だったのです。そしてその「他の人」は新人だったので、対処の仕方を知らなかった。ただそれだけのことでした。

今回のことで、また私の悔い改めるべき悪い部分が出ていたことに気付きました。

自分に対する人の行為で嫌なことがあると、どうしても自分勝手な想像でネガティブな考えを植え付け、その考えによって卑屈になってしまい、自分は嫌がられている存在なのではないか? 煙たがられている存在なのではないか? と思いつつ、嫌な気分のまま時間を過ごしてしまう。
自分で自分の首をしめているのです。

そして、さらに悪いことに、せっかく神様に出会い、信仰生活をしているのに、神様に祈り求めず、自分の感情で物事を考え、自分の判断で解決しようとしてしまいます。

何か起きたらすぐに神様に意識を向け、すべてを委ねて祈り求めればいいのに、それがすぐに出来ていない。

結局、今回も杞憂に過ぎませんでした。

考えてみると、これまでの心配事や不安のほとんどが杞憂に過ぎなかったことが、あとで分かります。その時はとても嫌な気持ちになっていたり、不安だったりしても、結局そんなことは起きませんでした。そして、いつの間にか解決して過ぎ去ってしまっているのです。

すべて神様が解決してくださっていた。

そのことに、信仰を持つ前はそれに気付けませんでした。というか、知らなかったのだから気付けなかったのですが、信仰を持っているのだから、すぐに気付くべきなのです。

もう、いい加減その事を悟り、不安や悩みに苛まれたら、すぐに神様に祈り求めるようにすればいいのに、どうしてもしばらくは、その嫌な思いに囚われて、神様に頼ることを忘れてしまう。
そして「はっ」と気付いて、祈り求める。そのようなことの繰り返しです。

ただ、以前に比べると大分よくなってきたと思います。

まだ信仰を始める前は、常に未来に対して漠然とした不安が常にありました。今後、このままで自分は大丈夫なのだろうか、大したこともせず、ただ適当に生きていいていいのか、それが人生というものなのだろうか、といった感じです。更に、貯金はどのくらいしたらいいのか、災害が来たらどうしたらいいのか、会社がつぶれてしまったら、など、考え出したがキリがありませんでした。

ラプトブログに出会い、有料記事を読み始め、信仰生活を始めると、そういった漠然とした不安や悩みはなくなりました。

しかし、依然として日々の細かい悩みや不安は絶えませんでした。むしろ、漠然とした不安が消えたことで、それに隠されていた(誤魔化されていた)細かい部分が浮き彫りになった感じで、そういった取るに足らないような小さい不安や悩みが余計に気になるようになっていたような気がします。
サタンからの攻撃もあったのかもしれませんが。

それでも、信仰生活を長く続けているうちに、神様に祈り求めることを学び、実際に明け方の時間に祈り求めるようになって、更に以前書いたように、答えを頂けるようにもなりました。

http://librojp.com/2021/01/25

常に神様を感じ、神様と共に考え、神様の感じるように物事を感じられるようになりたい。
目指すべきはその境地です。

まだまだ自身の考えが完全に抜け切れていない。
まだまだ自身の感情で物事を考えてしまう。
まだまだ人間的価値観で判断してしまう。

こうしたことを少しずつ悔い改め、神様に近づいていきたいと思います。

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